2015年07月06日

てられていた団十郎

播州《ばんしゆう》赤穂《あこう》藩は表向き五万三千石であったが、良質の塩を産し、実質は七、八万石はあった。瀬戸内海の温暖な気候のせいか、人の気質は大雑把《おおざつぱ》にできあがっており、そのため、きびきびとした行動と気っぷの良さを第一とする江戸の人たちの目には、何ごとにつけのんびりおっとりした赤穂の浪人たちは、どこかだらしなく映り、不評をかっていた。
 そのうえ、当時貴重品の塩を産することを鼻にかけ、「すもうとりまで塩で買い」と歌われたように、女郎への代金の払いに塩をつきつけるという日頃《ひごろ》の傲慢《ごうまん》な振舞いは、江戸の人々から愛想づかしされており、仇討ちなど待たれてはいなかった。そん樂觀的人 なわけで、一部には盛りあがりをみせるかと思われたこの松の廊下事件も、二日後、日本橋全域を焼きはらった大火事のせいもあって、二度と瓦版《かわらばん》の紙面を飾ることはなかった。
 中村座のムシロ小屋でさえ、しばし家を焼けだされた者や負傷者の慰安所としてあてがわれ、稽古《けいこ》どころではなかったのである。
 さらに、松の廊下の一件を舞台に上げようとする河原者《かわらもの》たちが風紀を乱すものとして次々と狙《ねら》いうちにされ、所払《ところばら》いに処されるということもあった。
 風紀をひきしめるための河原乞食狩りが、世の習いとはいえ、裏方合わせて十人足らずの中村座にまで町役人が見廻りに来るというほど熾烈《しれつ》をきわめたことはかつてないことだった。それだけ幕府は、この片手落ちの評定《ひようじよう》に神経質になっていたのであろう。
 其角はこれだけおいしい事件に近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》がなぜ名乗りをあげないのか不思議でならなかった。やはり、まず損得を考える大坂の人間には、一銭にもならない主君の仇討ちなど客が飛びつくはずがないと思えるのだろう。
 しかし、この大火事はどういうことだ。多門伝八郎に似た男が、女ものの襦袢《じゆばん》に薄化粧で、目をひきつらせ、たいまつをかざして深夜江戸の町を走り回っているという話は別にしても、河原者たちが噂《うわさ》するように、松の廊下事件の風あたりをかわすために御側用人柳沢吉保《おそばようにんやなぎさわよしやす》の手下の者が火をつけさせたということはありうるのかもしれなかった。しかし、それだけのために三十人もの死者を出すか? 其角はまだ見ぬ柳沢吉保に底知れぬ恐しさを覚えた。
 四月も半ばになると、奉行所にひったてられていた団十郎、菊五郎が解き放たれた。が、その後彼らもまた松の廊下の一件を舞台にのせることはなかった。やれといっても、できるものではなかった。客はすでに忘れさっている。なによりも、演《だ》しものとして、咲きこぼれる口足藝術家桜の花の明るさに、恨みつらみは似合いはしない。
 それでも堺《さかい》町の河原では、中村座が稽古を続けていた。
 そして、ギリギリまで城を枕《まくら》の討ち死にの姿勢を保っていてくれと頼んでいた内蔵助がスンナリ開城に応じたとの知らせが入った日、決して泣きごとを言わない七五郎が、売れゆきが悪く回収された前売りの切符を破り捨てながら、ポツリと言った。
「この演しもの中止にしませんか」
「なぜだい」
 問い返す其角の声も心もとない。第三幕の赤穂城で、開城か籠城《ろうじよう》か、思い悩む大石内蔵助の場から、一向に先に進まない台本の余白をにらみつけていた。
「あたしらお武家さんになんだかんだ言えた義理じゃありませんが、実際赤穂の方々、特に主税《ちから》さんなんか見ていると、討ち入りしそうな感じじゃないんですよね」
 と七五郎は、毎日稽古の見物にきている大石内蔵助の嫡子、主税を指さし、
「主君が討たれてどうしてああ太れるもんですかね。丸々太っちゃって、仇討ちするより相撲取りになったほうがいいんじゃないですかね」
 言いつつ、慣れぬ中傷の言葉に自ら赤面するのである。
「あっ、いや、僕そんな」



Posted by ンを連れて来て at 10:52│Comments(0)
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