2016年06月08日
もあったはずだぞ
「ベーリオンを取り出して、クワジュを呼び出すように言いなさい。それからクワジュに望みを伝えるのです。あまり詳しく話す必要はありません。クワジュにはあなたの考えがわかりますから。あなたに向こうの考えがわかったりしないことを祈るのですね」
スパーホークは大きく息を吸いこむと、小袋を暖炉の上に置いた。「行きますよ」袋を開き、ベーリオンを取り出す。手を触れたとき、サファイアの薔薇は氷のように冷たかった。思わず湧き上がってくる畏怖の念をできる限り遠ざけ、宝石を両手に持ってきびしく声をかける。「青い薔薇! クワジュの声をここへ連れてこい!」
宝石が奇妙に揺らいだような気がして、群青色の花弁の奥にまっ赤な光点が見えた。両手の中でベーリオンがいきなり熱くなる。
「クワジュ!」スパーホークはトロール語で叫んだ。「わたしはエレニアのスパーホークだ。指輪を持っている。クワジュは命令に従わなければならない」
手の中でベーリオンが震える。
「わたしはエレニアのマーテルを探している。エレニアのマーテルは、二度眠る前にこの場所にいた。クワジュはエレニアのスパーホークが見たいものを火の中に見せる。クワジュはエレニアのスパーホークが聞きたいことを聞かせる。クワジュは従え! 今すぐに!」
ごくかすかに、やたらと声の反響する虚《うつ》ろな場所から、遠く怒りの咆哮が聞こえたような気がした。そこに巨大な炎のはじける音がかぶさっているようだ。暖炉で踊るように燃えていた樫《かし》の木の炎が、燠火《おきび》くらいにまで小さくなった。その火がふたたび大きくなり、明るい黄色の炎が暖炉の開口部から勢いよく噴き上げる。と、炎がいきなり静止した。もはや揺らめいてもいなければ踊ってもおらず、輝きだけはそのままに凍りついてしまっている。同時に暖炉の熱も、まるで厚い硝子《ガラス》で仕切りをしたかのように、まったく届いてこなくなった。
気がつくとスパーホークは天幕の中を覗きこんでいた。憔悴した様子のマーテルが粗末なテーブルの前に座り、反対側にはもっとやつれの目立つアニアスがいた。
「どうしてやつらの居所がわからないのだ」シミュラの司教が尋ねた。
「わからん」マーテルがざらざらした声で答えた。「オサがくれたもの[#「もの」に傍点]たちを総動員したんだが、何も見つけられなかった」
「無敵のパンディオン騎士よ」アニアスが冷笑する。「もっと長く騎士団にとどまって、子供騙しの手品みたいなものよりましな魔術を、セフレーニアから教わっておくべきだったな」
「おまえはもうほとんど何の役にも立たなくなってしまっているんだぞ、アニアス」マーテルは不気味な口調になった。「オサとおれにとって、総大司教になるのは誰だっていいんだ。どこの聖職者だろうとな。おまえの代わりなどいくらでもいる」その一言で、誰が誰から命令を受けているのか、疑問の余地なくはっきりした。
天幕の入口の垂れ布が上がって、アダスがのっそりと入ってきた。その鎧はさまざまな国の甲冑の部品を寄せ集めたもので、しかも錆《さび》だらけだった。アダスには前頭部というものがないことに、スパーホークはあらためて気がついた。眉の上からすぐに髪が生えているのだ。
「死んだ」アダスはうめき声と区別がつかないような声を出した。
「歩かなくてはならんぞ、このばか者め」とマーテル。
「弱い馬だった」アダスは肩をすくめた。
「おまえが死ぬほど拍車をくれなかったら、まったく問題はなかった。別の馬を盗んでこい」
アダスはにっと笑った。「農場の馬か」
「馬なら何でもいい。農夫を殺したり女で楽しんだりするのもいいが、一晩じゅうかけるんじゃないぞ。それから、終わったあと農家を燃やすな。こっちの居場所を宣伝するようなものだ」
アダスは笑って――少なくとも笑い声のように聞こえないことはない――天幕から出ていった。
「よくあんな野蛮人を我慢して使っているな」アニアスが身震いする。
「アダスのことか。あれはそう悪くない。歩く戦斧《バトルアックス》だと思えばいいんだ。人を殺すのに使うだけで、いっしょに寝ようとは思わん。そういえば、おまえとアリッサの意見の違いは解決したのか」
「あの淫売め!」アニアスの口調には軽蔑がこもっていた。
「そんなことは最初から知っていたろうに。あの身持ちの悪さに惹《ひ》かれた部分マーテルはアニアスに顔を寄せた。「きっとベーリオンのせいだ」
「何がだ?」
「スパーホークを見つけ出せない理由だ」
「アザシュにも見つけられないのか」
「おれはアザシュに命令したりはしないんだ、アニアス。向こうが何かをおれに教えておきたいと思ったとき、連絡があるだけだ。ベーリオンはあの神よりも力があるのかもしれん。どうしても知りたければ、寺院に着いたとき自分で訊いてみるんだな。きっと怒るだろうが、それはおまえの問題だ」
「今日はどのくらい進んだ」
「せいぜい七リーグだ。アダスが馬の腹を拍車で蹴破ってから、ひどく速度が落ちたからな」
「ゼモックの国境まではどのくらいある?」
マーテルは地図を開いた。
Posted by ンを連れて来て at 18:19│Comments(0)