2016年07月12日

いきなり笑いだした

「今までのところはひとつだけだ」老人は説明した。「やがては別の名を持つかもしれんぞ――ひとつふたつにとどまらないかもしれん。人生を生きていく途中で名前を集め嬰兒濕疹る人間もいるのだよ。ときには名前がすりへってしまうこともある――ちょうど服のように」
「ポルおばさんは老いぼれ狼《ウルフ》って呼んでいるね」
「ああ、ポルおばさんとわしは大昔からの知りあいなのさ」
「なぜおばさんはそう呼ぶの?」
「おまえのおばさんのような女性がすることはだれにもわからんよ」
「ミスター?ウルフと呼んでもいいかい?」とガリオンはたずねた。ガリオンにとって名前はきわめて重要だった。老語り部に名前がないらしい事実は、いつもかれを悩ませていた。名前がないと、どことなく老人が不完全で未完成に思われた。
いきなり笑いだした
 老人はしばらく真顔でガリオンを見つめたあと。「ミスター?ウルフとはね。いやはやぴったりだ。これまででそれが一番気に入ったよ」
「じゃ、いいの? ミスター?ウルフって呼んで?」
「悪くないぞ、ガリオン。おおいにけっこうだ」
「それじゃ、お話を聞かせてよ、ミスター?ウルフ」
 ミスター?ウルフが数世紀におよぶアレンド人の陰気な果てしない市民戦争に材をとっためくるめく冒険と、腹黒い裏切りの話をガリオンに聞かせると、時間も距離もあっ嬰兒濕疹というまに経過した。
「どうしてアレンド人はそんなふうなのかな?」とりわけ陰欝な話のあとでガリオンはたずねた。
「アレンド人は非常に気位が高いのだ」ウルフは片手に手綱をいい加減につかんだまま、馬車の座席によりかかった。「気位が高いというのは必ずしも信頼できる特質ではない。曖昧な理由から人間を行動させることがあるからな」
「ランドリグはアレンド人なんだ」ガリオンは言った。「かれはときどき――その、頭があまりよく回らないみたいなんだ、ぼくの言う意味わかるかな」
「それも気位が高いせいさ。下品になるまいとのろのろしているうちに、ほかのことを考える時間がなくなってしまうのだ」
 かれらは長い丘の頂上にさしかかった。次の谷にアッパー?グラルトの村が横たわっていた。スレートの屋根を持つ灰色の石造りの小さな村落は、ガリオンにはがっかりするほどちっぽけに見えた。土埃のつもった白い二本の道路が交差し、曲がりくねった数本の細い通りが走っている。家は四角くがっしりしていたが、まるで下方の谷に置かれたおもちゃのようだった。東部センダリアの山並が向こうに見える地平線をぎざぎざに削り、夏だというのにほとんどの山頂はまだ雪をかぶっていた。
 くたびれた馬は村をめざしてとぼとぼと丘をくだった。一歩進むごとにひづめが小さな土埃を舞いあげ、まもなくかれらは玉石舗装の通りをがたがたと音をたてて村の中心へ向かった。村人たちはおつにすましていて、農園の馬車に乗った年よりと子供にはむろん目もくれなかった。女たちはドレスを着て先の尖った帽子をかぶり、男たちは丈の短い上着に柔らかいビロードの縁なし帽をかぶっていた。かれらの顔つきは高慢で、町なかでうやうやしく道をあけ、かれらを通す数人の農夫たちを明らかにさげすみの目で見ていた。
「みんなすごくりっぱだね」ガリオンは感想を述べた。
「自分たちでもそう思っているらしいな」ウルフはちょっとおもしろそうな顔をして言った。
「何か食べる物を見つける時間だと思うが、どうだ?」
 それまで気づかなかったが、老人にそう言われてみると、ガリオンはきゅうにおなかがすいてきた。「どこへ行くの? だれもかれも大金持ちみたいだけど、見知らぬ人間をテーブルに呼んでくれるかな?」
 ウルフは笑って腰にさげた財布をじゃらじゃらゆすった。「知り合いを作る手間は不要だよ。ここには食べ物を金で買う場所があるのさ」
 食べ物を買う[#「買う」に傍点]? はじめて聞くことだった。食事どきにファルドーの門にあらわれる者はだれでも当然のように食卓へ招かれた。村人の世界がファルドー農園の世界とまったく異質なのは明らかだった。「でもぼくお金は持ってないよ」ガリオンは口をとがらせた。
「わしがたっぷり二人分持っている」ウルフは少年を安心させると、とある大きな低い建物の前で馬をとめた。ドアの真上にひと房のブドウの絵を描いた看板がかかっている。看板には字が書いてあったが、もちろんガリオンには読めなかった。
「なんて書いてあるの、ミスター?ウルフ?」ガリオンはたずねた。
「中で食べ物と飲み物が買えると書いてあるのさ」ウルフは馬車からおりた。
「字が読めるのってきっといい気分だろうね」ガリオンはうらやましそうに言った。
 老人はびっくりしたようにかれを見つめた。「おまえには読めんのか、ぼうや?」信じられんというように訊いた。
「教えてくれる人がいなかったんだ。ファルドーは読めるんだろうけど、農園じゃほかのだれも読み方を知らないんだ」
「なんたることだ」ウルフは鼻をならした。「おまえのおばさんに話しておこう。彼女は義務を怠っておる。とっくに教えているべきだったのだ」
「ポルおばさんて字が読めるの?」ガリオンは呆気にとられてたずねた。
「読めるとも」ウルフは先に立って居酒屋へはいっていった。「字が読めてもろくなことはないと彼女は言うが、それについてはずっと前にさんざん話しあったのだ」老人はガリオンの教育の欠陥にいたく動転しているようだった。
 だがガリオンは空気のよどんだ居酒屋の内部にすっかり気をとられていたので、それにはあまり注意を払わなかった。店内は広くて薄暗く、天井の梁は低くて石の床にはイグサがちらばっていた。寒くはなかったが、中央の石のくぼみに火が燃えて、四本の四角い石柱が支える煙突のほうへ煙がふわふわと昇っていた。数台の細長いしみだらけのテーブルの上に土焼きの皿がのっていて、その中に獣脂のろうそくの脂がしたたっており、ワインと気のぬけたビールの匂いが空中にたちこめていた。
「食べ物は何がある?」ウルフは脂のしみだらけのエプロンをした仏頂面の不精ひげを生やした男に問いかけた。
「骨付き肉が残ってるよ」男は暖炉の片側で停止している焼串を指さした。「おとといローストしたばかりだ。それにきのうの朝こしらえた肉がゆと、ほんの一週間前のパンもある」
「よかろう」ウルフは腰をおろして言った。「それとわしにはここで一番上等のビール、この子にはミルクだ」
「ミルク?」ガリオンは文句を言った。



Posted by ンを連れて来て at 12:34│Comments(0)
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